横瀬智也BLOG

逃げ若 北条時行と中先代の乱

北条時行といってもぱっとイメージする人はすくないのではないでしょうか。
鎌倉時代の北条一族といえば、北条政子、北条時宗、北条高時・・・

を思い出す人が多いと思います。
逃げ若で、話題の北条時行は北条政権末期、14代執権
高時の息子です。(ちなみに、15代、北条(金沢 )貞顕
16代は、北条(赤橋)守時です。ここで、執権は終わり。

鎌倉幕府は新田義貞によって滅ぼされてしまいますが、
時行はこのとき、一族と運命をともにせず、鎌倉を脱出します。

その後、後醍醐天皇時代の建武年に、旧北条派の残党とともに、
一時的ではあるが鎌倉を奪還することに成功。結局、すぐに奪還されてしましますが、
(中先代の乱)

その後は後醍醐天皇(南朝方)に与して、足利尊氏との戦いに運命をかけることになります。
ここでは、都から遠く離れた東北から大軍で兵を率いて現れ南朝方の若きプリンス、
北畠顕家を合流して、再び鎌倉を奪還。(すごいの一言です)更に凄いのはこの語1337年
この東北からの遠征軍の守護神でもある、北畠顕家がその後戦死しているにもかかわらず、
時行はここでも生き残ります。最終的に南朝方に帰属して、足利方と戦いを続けるわけですが、
1352年ついに、逃げ切れず処刑されたということになっています。南北朝の戦いでは、
後醍醐天皇の側近や南朝方は、北畠顕家だけでなく、新田義貞、脇屋義助(義貞の弟)、
楠木正成、だけでなく千種忠顕のような側近として活躍した公家もことごとく戦死
しています。北条時行は、そういう意味では当時の武士の面子からは比較的自由な立場で
活動していたのではないかと思います。得宗家に生まれた運命に翻弄された、とも言えますが
与えられた運命におもいっきり抗ったとも言えるし最後まで鎌倉幕府の再興を願っていたとも
感じられます。それくらい時行にとって鎌倉は思い入れの強い場所だったのだと思います。

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