イザナギとイザナミと言う二柱の神様がおられます。
イザナギの神はうつし世を司られております。御名を冠した神社は、兵庫県淡路島に伊弉諾神宮があります。
イザナミの神は、黄泉の国を収められています。御名を冠した神社は、徳島県に伊射奈美神社というものがあります。
このイザナギとイザナミの間には、語り尽くせないほどの子供がいます。
その子供の中には、かの有名な天照大神や月読命や素戔嗚尊などもいます(正確にはイザナギから生まれたので、二柱の子とは言えないかもしれませんが)
古事記には、男女の誓をしに淡路島(当時、オノコロ島)に降り立って、先にイザナミの神から、お言葉をかけてしまったため、死産してしまったと伝えられ、逆にイザナギの神からお言葉をかけられる作法に変えるとうまく行ったと言われています。
この死産した最初の子は、ヒルコと呼ばれています。
ヒルコ…漢字にしますと蛭子。すなわち、エビス、恵比寿神社のご祭神と言われています。一説によると、毎年福男を決める兵庫県西宮市恵比寿神社に祀られており、淡路島にて、海に流されたヒルコ様が漂着した場所であるが故というお話があるそう。
なので、死産というのは、正確には、正しくないのかもしれませんし、神は「死」と言う概念そのものがありませんので、「死」にかんしては、イコール「いなくなる」すなわち、「お隠れ」になるといういわれ方もします。
エビス神については、この後も様々ないわれがあるのでまたご紹介しましょう。
そして、イザナミの神がなぜ、黄泉の国に行くことになったのか。これは、火の神ヒノカグツチを産んだ時に大火傷をおったからと言われています。
まだ二柱が降り立った頃は、地上には「地」という概念もなくて、「風」や「木」やさまざまなものもなかった頃だといわれています。
世界は、まだドロドロで押し固まってもいなかったと。
まるで、出来たての惑星の地表にマグマが渦巻いているような状況を想像できないでしょうか?
横瀬としては、ここにすごく興味をひかれます。
古事記を編纂した稗田阿礼は、地球創造をみてきたかのような様子をその話の中に入れられています。
今でこそ、科学が発達し、地学も明るくなっていますが、そんな技術もない大昔にその情景を想像できたということにロマンを感じるとでもいいましょうか。
横瀬の根本にあるのは、自然の一部という考えです。
大昔から脈々と受け継がれてきたこの景色を背に私たちは今を立っているのだと思えます。
古事記の上ツ巻が好きなのもそこに由来しています。
天照大神は、日の神。月読命は夜の神。スサノヲ尊は、海の神です。
この八方を海で囲まれ、年に一度は嵐がきて、ほぼ毎日のように地面が揺れるこの国に生まれた私たちだからこそ、今を病むことなく生きていくというのは、大切なことなのかもしれません。
ちなみに千曳の岩というもので黄泉の国と現世の国は分かれています。
イザナミの神がお隠れになったことに寂しさを覚えたイザナギの神が黄泉の国まで会いに行ったけれども、そこでは、肉体がボロボロになったイザナミの神と会うことになり、その様子をみて驚いたイザナギの神が現世に逃げ帰った際に夫婦最後の言葉の交わしをこの岩を背に行いました。
その内容は、「見られたくなかったのにわざわざ逢いに来て、嬉しかったのにもかかわらず、姿を見た途端逃げるとは、心底腹が立ちます。こうなったら、あなたの国の国人を1日に千人殺します」とイザナミの神。
「それならば、ワシは、一日に千五百人子供をつくるから」とイザナギの神。
結局、この夫婦はこうして恨みあったまま、夫婦生活に終わりを告げました。
なんだか、人間みたいですね。
そして、この夫婦のやり取りで、ついに人間には寿命というものができたといわれています。
そんな人間ぽくもある二柱の神様のお話をかたらせていただきました。